無始生死の苦においては、二三の水渧のごとし。滅すべきところの苦は大海の水のごとし。このゆえにこの地を名づけて「歓喜」とす。
(地相品)問うて曰わく、初歓喜地の菩薩、この地の中にありて「多歓喜」と名づけて、もろもろの功徳を得ることをなすがゆえに、歓喜を地とす。法を歓喜すべし。何をもって歓喜するや。答えて曰わく、「常に諸仏および諸仏の大法を念ずれば、必定して希有の行なり。このゆえに歓喜多し」と。かくのごとき等の歓喜の因縁のゆえに、菩薩、初地の中にありて心に歓喜多し。「諸仏を念ず」というは、然燈等の過去の諸仏・阿弥陀等の現在の諸仏・弥勒等の将来の諸仏を念ずるなり。常にかくのごときの諸仏世尊を念ずれば、現に前にましますがごとし。三界第一にして、よく勝れたる者ましまさず。このゆえに歓喜多し。諸仏の大法を念ぜば、略して諸仏の四十不共法を説かんと。一つには自在の飛行意に随う。二つには自在の変化辺なし。三つには自在の所聞無閡なり。四つには自在に無量種門をもって、一切衆生の心を知ろしめすと。乃至。「念必定のもろもろの菩薩」は、もし菩薩、阿耨多羅三藐三菩提の記を得つれば、法位に入り無生忍を得るなり。千万億数の魔の軍衆、壊乱することあたわず。大悲心を得て大人法を成ず。
乃至 これを「念必定の菩薩」と名づく。「希有の行を念ず」というは、必定の菩薩第一希有の行を念ずるなり。心に歓喜せしむ。一切凡夫の及ぶことあたわざるところなり。一切の声聞・辟支仏の行ずることあたわざるところなり。仏法無閡解脱および薩婆若智を開示す。また十地のもろもろの所行の法を念ずれば、名づけて「心多歓喜」とす。このゆえに、菩薩初地に入ることを得れば名づけて「歓喜」とすと。