もしこれをもって推するに、帰命は重とす。偈は己心を申ぶ、宜しく帰命と言うべし。『論』に偈義を解するに、ひろく礼拝を談ず。彼・此あい成ず、義においていよいよ顕れたり。何をもってか知らん、「尽十方無碍光如来はこれ讃嘆門なり」とは。下の長行の中に言わく、「いかんが讃嘆する。いわく、かの如来の名を称す。かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲うがゆえに」と。乃至 天親いま「尽十方無碍光如来」と言えり。すなわちこれ、かの如来の名に依って、かの如来の光明智相のごとく讃嘆するがゆえに、知りぬ、この句はこれ讃嘆門なりとは。「願生安楽国」は、この一句はこれ作願門なり、天親菩薩帰命の言なり。乃至 問うて曰わく、大乗経論の中に処処に「衆生、畢竟無生にして虚空のごとし」と説きたまえり。いかんぞ天親菩薩、願生と言うや。答えて曰わく、「衆生無生にして虚空のごとし」と説くに、二種あり。一つには、凡夫の実の衆生と謂うところのごとく、凡夫の所見の実の生死のごとし。この所見の事、畢竟じて有らゆることなけん、亀毛のごとし、虚空のごとしと。二つには、いわく、諸法は因縁生のゆえに、すなわちこれ不生にして有らゆることなきこと、虚空のごとしと。天親菩薩、願生するところはこれ因縁の義なり。因縁の義なるがゆえに、仮に生と名づく。凡夫の、実の衆生・実の生死ありと謂うがごときにはあらざるなり。問うて曰わく、何の義に依って往生と説くぞや。答えて曰わく、この間の仮名の人の中において、五念門を修せしむ。前念と後念と因と作る。穢土の仮名の人・浄土の仮名の人、決定して一を得ず、決定して異を得ず。前心・後心またかくのごとし。何をもってのゆえに。もし一ならばすなわち因果なけん。もし異ならばすなわち相続にあらず。この義、一異を観ずる門なり。『論』の中に委曲なり。第一行