35『安楽集』に云わく、『観仏三昧経』に云わく、「父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまう。父の王、仏に白さく、「仏地の果徳、真如実相、第一義空、何に因ってか弟子をしてこれを行ぜしめざる」と。仏、父王に告げたまわく、「諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆえに、父王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる」と。父王、仏に白さく、「念仏の功、その状いかんぞ」と。仏、父王に告げたまわく、「伊蘭林の方四十由旬ならんに、一科の牛頭栴檀あり。根芽ありといえども、なお未だ土を出でざるに、その伊蘭林ただ臭くして香ばしきことなし。もしその華菓を噉ずることあらば、狂を発して死せん。後の時に栴檀の根芽ようやく生長して、わずかに樹にならんと欲す。香気昌盛にして、ついによくこの林を改変してあまねくみな香美ならしむ。衆生見る者、みな希有の心を生ぜんがごとし。」仏、父王に告げたまわく、「一切衆生、生死の中にありて、念仏の心もまたかくのごとし。ただよく念を繫けて止まざれば、定んで仏前に生ぜん。ひとたび往生を得れば、すなわちよく一切諸悪を改変して大慈悲を成ぜんこと、かの香樹の伊蘭林を改むるがごとし。」」言うところの「伊蘭林」は、衆生の身の内の三毒・三障、無辺の重罪に喩う。「栴檀」と言うは、衆生の念仏の心に喩う。「わずかに樹に成らんと欲す」というは、いわく、一切衆生ただよく念を積みて断えざれば、業道成弁するなり。
 問うて曰わく、一切衆生の念仏の功を計りて、また一切知るべし。何に因ってか、一念の功力よく一切の諸障を断つこと、一の香樹の四十由旬の伊蘭林を改めて、ことごとく香美ならしむるがごとくならんや。答えて曰わく