諸部の大乗に依って念仏三昧の功能の不可思議なるを顕さんとなり。いかんとならば、『華厳経』に云うがごとし。「たとえば人ありて、師子の筋をもって、もって琴の絃とせんに、音声ひとたび奏するに一切の余の絃ことごとくみな断壊するがごとし。もし人、菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の煩悩、一切の諸障、ことごとくみな断滅すと。また人ありて、牛・羊・驢馬一切の諸乳を搆し取りて一器の中に置かんに、もし師子の乳一渧をもってこれを投ぐるに、直ちに過ぎて難なし。一切の諸乳ことごとくみな破壊して変じて清水となるがごとし。もし人ただよく菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の悪魔・諸障、直ちに過ぐるに難なし。」またかの『経』に云わく、「たとえば人ありて、翳身薬をもって処処に遊行するに、一切の余行この人を見ざるがごとし。もしよく菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の悪神・一切の諸障この人を見ず、もろもろの処処に随いてよく遮障することなきなり。何がゆえぞとならば、よくこの念仏三昧を念ずるは、すなわちこれ一切三昧の中の王なるがゆえなり」と。
 36また云わく、『摩訶衍』(大智度論)の中に説きて云うがごとし、「諸余の三昧、三昧ならざるにはあらず。何をもってのゆえに。あるいは三昧あり、ただよく貪を除いて、瞋痴を除くことあたわず。あるいは三昧あり、ただよく瞋を除いて、痴貪を除くことあたわず。あるいは三昧あり、ただよく痴を除いて、瞋を除くことあたわず。あるいは三昧あり、ただよく現在の障を除いて、過去・未来の一切の諸障を除くことあたわず。もしよく常に念仏三昧を修すれば、現在・過去・未来の一切の諸障を問うことなく、みな除くなり。」
 37また云わく、『大経の賛』(讃阿弥陀仏偈)に云わく、「もし阿弥陀の徳号を聞きて、歓喜賛仰し心帰依すれば、