自ずから果を獲ざらんや。かるがゆえに自然と云う。貴賎を簡ばず、みな往生を得しむ。かるがゆえに「著無上下」と云う、と。
 66また云わく、「易往而無人 其国不逆違 自然之所牽」と。因を修すればすなわち往く、修することなければ生まるること尠なし。因を修して来生するに、終に違逆せず。すなわち易往なり。
 67また云わく、本願力故というは、すなわち往くこと誓願の力なり。満足願故というは、願として欠くることなきがゆえに。明了願故というは、これを求むるに虚しからざるがゆえに。堅固願故というは、縁として壊ることあたわざるがゆえに。究竟願故というは、必ず果し遂ぐるがゆえに。
 68また云わく、総じてこれを言わば、凡小をして欲往生の意を増さしめんと欲うがゆえに、須らくかの土の勝ることを顕すべし、と。
 69また云わく、すでにこの土にして菩薩の行を修すと言えり。すなわち知りぬ、無諍王この方にましますことを。宝海もまたしかなり、と。
 70また云わく、仏の威徳広大を聞くがゆえに、不退転を得るなり、と。已上
 71『楽邦文類』に云わく、総官の張掄云わく、「仏号はなはだ持ち易し、浄土ははなはだ往き易し。八万四千の法門、この捷径にしくなし。ただよく清晨俛仰の暇を輟めて、ついに永劫不壊の資をなすべし。これすなわち、力を用うることは、はなはなだ微にして、功を収むることいまし尽くることあることなけん。衆生また何の苦しみあればか、自ら棄ててせざらんや。ああ夢幻にして真にあらず、寿夭にして保ちがたし。呼吸の頃に、すなわち