天魔を謂うなりを発動す。『止観論』に依って三昧を修習することあり、あるいは時魅を発動す。これ等、ならびにこれ、禅定を修する人、その自力に約してまず魔種あり、定んで撃発を被るがゆえにこの事を現ず。もしよく明らかに識りておのおの対治を用いれば、すなわちよく除遣せしめん。もし聖の解を作せば、みな魔障を被るなりと。上にこの方の入道を明かす、すなわち魔事を発す。今、所修の念仏三昧に約するに、いまし仏力を憑む。帝王に近づけば、あえて犯すものなきがごとし。けだし阿弥陀仏、大慈悲力・大誓願力・大智慧力・大三昧力・大威神力・大摧邪力・大降魔力・天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹鑑力・光明遍照摂取衆生力ましますに由ってなり。かくのごとき等の不可思議功徳の力まします。あに念仏の人を護持して、臨終の時に至るまで障碍なからしむることあたわざらんや。もし護持をなさずは、すなわち慈悲力なんぞましまさん。もし魔障を除くことあたわずは、智慧力・三昧力・威神力・摧邪力・降魔力、またなんぞましまさんや。もし鑑察することあたわずして、魔、障をなすことを被らば、天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹鑑力、またなんぞましまさんや。『経』(観経)に云わく、「阿弥陀仏の相好の光明、あまねく十方世界を照らす。念仏の衆生をば摂取して捨てたまわず」と。もし念仏して臨終に魔障を被ると謂わば、光明遍照摂取衆生力、またなんぞましまさんや。いわんや念仏の人の臨終の感相、衆経より出でたり。みなこれ仏の言なり。なんぞ貶して魔境とすることを得んや。今ために邪疑を決破す。当に正信を生ずべし」と。已上かの文
 75また云わく元照律師『弥陀経義』の文、一乗の極唱、終帰をことごとく楽邦を指す。万行の円修、最勝を独り果号に推る。まことにもって因より願を建つ。志を秉り行を窮め、塵点劫を歴て済衆の仁を懐けり。芥子の