願なり、楽なり、覚なり、知なり。「生」はすなわちこれ成なり、作なり、為なり、興なり。
 31明らかに知りぬ、「至心」はすなわちこれ真実誠種の心なるがゆえに、疑蓋雑わることなきなり。「信楽」はすなわちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆえに、疑蓋雑わることなきなり。「欲生」はすなわちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり、大悲回向の心なるがゆえに、疑蓋雑わることなきなり。32今三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮雑わることなし、正直の心にして邪偽雑わることなし。真に知りぬ、疑蓋間雑なきがゆえに、これを「信楽」と名づく。「信楽」はすなわちこれ一心なり。一心はすなわちこれ真実信心なり。このゆえに論主建めに「一心」と言えるなり、と。知るべし。
 33また問う。字訓のごとき、論主の意、三をもって一とせる義、その理しかるべしといえども、愚悪の衆生のために、阿弥陀如来すでに三心の願を発したまえり、云何が思念せんや。34答う。

生者即是成也、作也、為也、興也。
明知、至心即是真実誠種之心故疑蓋無雑也。信楽即是真実誠満之心、極成用重之心、審験宣忠之心、欲願愛悦之心、歓喜賀慶之心故疑蓋無雑也。欲生即是願楽覚知之心、成作為興之心、大悲回向之心故疑蓋無雑也。今案三心字訓真実心而虚仮無雑、正直心而邪偽無雑。真知、疑蓋無間雑故是名信楽。信楽即是一心。一心即是真実信心。是故論主建言一心也、応知。
又問。如字訓、論主意以三為一義、其理雖可然、為愚悪衆生、阿弥陀如来已発三心願、云何思念也。答。