この三種の荘厳成就は、本四十八願等の清浄の願心の荘厳したまうところなるに由って、因浄なるがゆえに果浄なり、因なくして他の因あるにはあらざるなりと知る応しとなり、と。已上
 57また『論』(浄土論)に曰わく、「出第五門」とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示して、生死の園、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを「出第五門」と名づくとのたまえり、と。已上
 58(散善義)光明寺の和尚の云わく、また回向発願して生まるる者は、必ず決定真実心の中に回向したまえる願を須いて、得生の想を作せ。この心深く信ぜること、金剛のごとくなるに由って、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。ただこれ決定して一心に捉って、正直に進みて、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなわち進退の心ありて怯弱を生じ、回顧すれば、道に落ちてすなわち往生の大益を失するなり、と。已上
 59真に知りぬ。二河の譬喩の中に、「白道四五寸」と言うは、「白道」とは、「白」の言は黒に対するなり。「白」は、すなわちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。「黒」は、すなわちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人天の雑善なり。「道」の言は、路に対せるなり。「道」は、すなわちこれ本願一実の直道、大般涅槃無上の大道なり。「路」は、すなわちこれ二乗・三乗・
真知、二河譬喩中、言白道四五寸者、白道者白之言対黒也。白者即是選択摂取之白業、往相回向之浄業也。黒者即是無明煩悩之黒業、二乗人天之雑善也。道之言対路。道者則是本願一実之直道、大般涅槃無上之大道也。路者則是二乗三乗万善諸行之小路也。