121また云わく、弥陀の身色は金山のごとし。相好の光明は十方を照らす。ただ念仏するありて、光摂を蒙る。当に知るべし、本願最も強しとす。十方の如来舌を舒べて証したまう。専ら名号を称して西方に至る。かの華台に到りて妙法を聞く。十地の願行自然に彰る、と。
 122(観念法門)また云わく、ただ阿弥陀仏を専念する衆生ありて、かの仏心の光、常にこの人を照らして摂護して捨てたまわず。すべて余の雑業の行者を照らし摂むと論ぜず。これまたこれ現生護念増上縁なり、と。已上
 123(序分義)また云わく、「心歓喜得忍」と言うは、これは阿弥陀仏国の清浄の光明、たちまちに眼前に現ぜん。何ぞ踊躍に勝えん。この喜びに因るがゆえに、すなわち無生の忍を得。また「喜忍」と名づく、また「悟忍」と名づく、また「信忍」と名づく。これすなわち玄に談ずるに、未だ得処を標さず、夫人をして等しく心にこの益を悕わしめんと欲う。勇猛専精にして心に見んと想う時に、方に忍を悟るべし。これ多くこれ十信の中の忍なり、解行已上の忍にはあらざるを明かすなり、と。
 124(散善義)また云わく、「若念仏者」とより、下「生諸仏家」に至るまで已来は、正しく念仏三昧の功能超絶して、実に雑善をして比類とすることを得るにあらざることを顕す。すなわちそれに五あり。一つには、弥陀仏の名を専念することを明かす。二つには、能念の人を指讃することを明かす。三つには、もしよく相続して念仏する者、この人はなはだ希有なりとす、さらに物としてもってこれに方ぶべきことなきことを明かす。かるがゆえに「芬陀利」を引きて喩とす。「分陀利」と言うは、「人中の好華」と名づく、また「希有華」と名づく、また「人中の上上華」と名づく、また「人中の妙好華」と名づく。この華あい伝えて「蔡華」と名づくる、