「阿闍世」とす。善男子、「阿闍」は不生に名づく、「不生」は涅槃と名づく。「世」は世法に名づく。「為」は不汚に名づく。世の八法をもって汚さざるところなるがゆえに、無量・無辺・阿僧祇劫に涅槃に入らずと。このゆえに我「阿闍世の為に無量億劫に涅槃に入らず」と言えり。善男子、如来の密語、不可思議なり。仏・法・衆僧、また不可思議なり。菩薩摩訶薩また不可思議なり。『大涅槃経』また不可思議なり。
 その時に、世尊大悲導師、阿闍世王のために月愛三昧に入れり。三昧に入り已りて大光明を放つ。その光清涼にして、往きて王の身を照らしたまうに、身の瘡すなわち癒えぬ。乃至 王言わまく、「耆婆、彼は天中の天なり。何の因縁をもってこの光明を放ちたまうぞや」と。「大王、今この瑞法はおよび王のためにあい似たり。先ず言わまく、世に良医の身心を療治するものなきがゆえに、この光を放ちて先ず王の身を治す。しかして後に心に及ぶ。」王の耆婆に言わまく、如来世尊、また見たてまつらんと念うをや、と。耆婆答えて言わく、たとえば一人して七子あらん。この七子の中に、(一子)病に遇えば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなわち偏に重きがごとし。大王、如来もまた爾なり。もろもろの衆生において平等ならざるにあらざれども、しかるに罪者において心すなわち偏に重し。放逸の者において仏すなわち慈念したまう。不放逸の者は心すなわち放捨す。何等をか名づけて「不放逸の者」とすると。謂わく六住の菩薩なりと。大王、諸仏世尊、もろもろの衆生において、種姓・老少・中年・貧富・時節・日月・星宿・工巧・下賎・僮僕・婢使を観そなわさず。ただ衆生の善心ある者を観そなわす。もし善心あれば、すなわち慈念したまう。大王、当に知るべし。かくのごときの瑞法は、すなわちこれ如来、月愛三昧に入りて放つところの光明なり、