その時に、世尊、阿闍世王を讃めたまわく、「善いかな、善いかな、もし人ありてよく菩提心を発せん。当に知るべし、この人はすなわち諸仏大衆を荘厳すとす。大王、汝昔すでに毘婆尸仏のみもとにして、初めて阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。これより已来、我が出世に至るまで、その中間において、未だかつてまた地獄に堕して苦を受けず。大王、当に知るべし、菩提の心はいましかくのごとき無量の果報あり。大王、今より已往に、常に当に菩提の心を懃修すべし。何をもってのゆえに。この因縁に従って、当に無量の悪を消滅することを得べきがゆえなり。」その時に阿闍世王および摩伽陀国の人民挙って座よりして起ちて仏を遶ること三帀して、辞退して宮に還りにき、と。已上抄出
 143(迦葉品)また言わく、善男子、羅閲祇の王頻婆沙羅、その王の太子、名づけて「善見」と曰う。業因縁のゆえに悪逆の心を生じて、その父を害せんとするに便りを得ず。その時に悪人提婆達多、また過去の業因縁に因るがゆえに、また我が所において不善の心を生じて、我を害せんとす。すなわち五通を修して、久しからずして、善見太子と共に親厚たることを獲得せり。太子のためのゆえに、種種の神通の事を現作す。門にあらざるより出でて門よりして入りて、門よりして出でて門にあらざるよりして入る。ある時は象馬・牛羊・男女の身を示現す。善見太子見已りて、すなわち愛心・喜心・敬信の心を生ず。これを本とするがゆえに、厳しく種種の供養の具を説きて、これを供養す。また白して言さく、大師聖人、我いま曼陀羅華を見んと欲う、と。時に提婆達多、すなわち法として三十三天に至りて、かの天人に従うてこれを求索するに、その福尽くるがゆえにすべて与うる者なし。すでに華を得ず。この思惟を作さく、曼陀羅樹は我・我所なし、もし自ら取らんに当に