衆生を教化す。種種に方便し、修行所作して、一切衆生の苦を滅除するがゆえに。「偈」に「無垢荘厳の光、一念および一時に、普く諸仏の会を照らして、もろもろの群生を利益するゆえに」と言えり」(論)。上に「不動にして至る」と言えり。あるいは至るに前後あるべし。このゆえにまた「一念一時無前無後」と言えるなり。「三には、かれ一切の世界において、余なくもろもろの仏会を照らす。大衆余なく広大無量にして、諸仏如来の功徳を供養し恭敬し讃嘆す。「偈」に「天の楽・華・衣・妙香等を雨りて、諸仏の功徳を供養し讃ずるに、分別の心あることなきがゆえに」と言えり」(論)と。「無余」とは、遍く一切世界一切諸仏の大会に至りて、一世界一仏会として至らざることあることなきを明かすなり。肇公の言わく、「法身は像なくして形を殊にす。ならびに至韻に応ず。言なくして玄籍いよいよ布き、冥権謀なくして動じて事と会す」(注維摩詰経序)と。けだしこの意なり。「四には、かれ十方一切の世界に、三宝ましまさぬ処において、仏法僧宝功徳大海を住持し荘厳して、遍く示して、如実の修行を解らしむ。「偈」に「何等の世界にか、仏法功徳宝ましまさざらん。我願わくは、みな往生して、仏法を示して仏のごとくせん」と言えるがゆえに」(論)と。上の三句に「遍く至る」と言うといえども、みなこれ有仏の国土なり。もしこの句なくは、すなわちこれ法身、所として法ならざることあらん。上善、所として善ならざることあらん。観行の体相竟りぬ。
 26已下はこれ解義の中の第四重なり。名づけて「浄入願心」とす。「浄入願心」とは「また、さきに観察荘厳仏土功徳成就、荘厳仏功徳成就、荘厳菩薩功徳成就を説きつ。この三種の成就は願心の荘厳したまえるなりと、知るべし」(論)といえり。「知るべし」とは、この三種の荘厳成就は、もと四十八願等の清浄の願心