善を作さざるはなきなり。もろもろの泥梨・禽狩・辟茘・考掠・勤苦の処にありて、阿弥陀仏の光明を見たてまつれば、至りてみな休止して、また治することを得ざれども、死して後、憂苦を解脱することを得ざる者はなきなり。阿弥陀仏の光明と名とは、八方上下無窮無極無央数の諸仏の国に聞かしめたまう。諸天人民、聞知せざるはなし。聞知せん者、度脱せざるはなきなり。」仏の言わく、「独り我阿弥陀仏の光明を称誉するのみにあらざるなり。八方上下無央数の仏・辟支仏・菩薩・阿羅漢、称誉するところみなかくのごとし。」仏の言わく、「それ人民、善男子・善女人ありて、阿弥陀仏の声を聞きて、光明を称誉して、朝暮に常にその光好を称誉して、心を至して断絶せざれば、心の所願にありて、阿弥陀仏国に往生す」と。已上
 11『不空羂索神変真言経』に言わく、汝当生の処は、これ阿弥陀仏の清浄報土なり。蓮華より化生して、常に諸仏を見たてまつる。もろもろの法忍を証せん。寿命無量百千劫数ならん。直ちに阿耨多羅三藐三菩提に至る。また退転せず。我常に祐護す、と。已上
 12『涅槃経』(四相品)に言わく、また解脱は、名づけて虚無と曰う。虚無すなわちこれ解脱なり。解脱すなわちこれ如来なり。如来すなわちこれ虚無なり。非作の所作なり。乃至 真解脱は不生不滅なり。このゆえに解脱すなわちこれ如来なり。如来また爾なり。不生不滅・不老不死・不破不壊にして、有為の法にあらず。この義をもってのゆえに、名づけて如来入大涅槃と曰う。乃至 また解脱は無上上と名づく。乃至 無上上はすなわち真解脱なり。真解脱は、すなわちこれ如来なり。乃至 もし阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得已りて、無愛無疑なり。無愛無疑はすなわち真解脱なり。真解脱はすなわちこれ如来なり。乃至 如来はすなわちこれ