造るところの業足、六道に繫がれ、三塗に滞る。唯、願わくは慈光我を護念して、我をして菩提心を失せざらしめたまえ。我、仏恵功徳の音を讃ず。願わくは十方のもろもろの有縁に聞かしめて、安楽に往生を得んと欲わん者、普くみな意のごとくして障碍なからしめん。あらゆる功徳もしは大小、一切に回施して、共に往生せしめん。不可思議光に南無し、一心に帰命し稽首し礼したてまつる。十方三世の無量慧、同じく一如に乗じて正覚と号す。二智円満して道平等なり。摂化すること縁に随う、故に若干ならん。我阿弥陀の浄土に帰するは、すなわちこれ諸仏の国を帰命するなり。我一心をもって一仏を賛ず、願わくは十方無碍人に遍ぜん。かくのごとき十方無量仏、ことごとくおのおの心を至して頭面に礼したてまつるなり、と。已上抄出
 35(玄義分)光明寺の和尚云わく、問うて曰わく、弥陀浄国は当これ報なりや、これ化なりとやせん。答えて曰わく、これ報にして化にあらず。いかんが知ることを得る。『大乗同性経』に説くがごとし、西方の安楽・阿弥陀仏はこれ報仏報土なり、と。また『無量寿経』に云わく、法蔵比丘、世饒王仏の所にましまして、菩薩の道を行じたまいし時、四十八願を発して、一一の願に言わく、「もし我仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を称して、我が国に生まれんと願ぜん、下十念に至るまで、もし生まれずは正覚を取らじ」と。いま既に成仏したまえり。すなわちこれ酬因の身なり。また『観経』の中に、上輩の三人、命終の時に臨みて、みな阿弥陀仏および化仏「与に」この人を来迎す、と言えり。しかるに報身、化を兼ねて共に来りて手を授く、と。かるがゆえに名づけて「与」とす。この文証をもってのゆえに、知りぬ、これ報なりと。36しかるに報応二身とは、眼目の異名なり。前には報を翻じて応と作る、後には応を翻じて報と作る。おおよそ報と言うは、因行虚しからず、