の文の中に、ただ「名号を専念して生を得」と標す。この例一にあらざるなり。広く念仏三昧を顕し竟りぬ、と。
 80(散善義)また云わく、また決定して「『弥陀経』の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して、決定して生を得」と深信せよ。乃至 諸仏は言行あい違失したまわず。たとい釈迦、指えて一切凡夫を勧めて、この一身を尽くして専念専修して、捨命已後定んでかの国に生まるるは、すなわち十方の諸仏ことごとくみな同じく賛め、同じく勧め、同じく証したまう。何をもってのゆえに、同体の大悲のゆえに。一仏の所化はすなわちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなわちこれ一仏の所化なり。すなわち『弥陀経』の中に説かく、乃至 また一切凡夫人を勧めて「一日・七日、一心にして弥陀の名号を専念すれば、定んで往生を得ん」と。次下の文に云わく、十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦を賛めたまわく「よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪煩悩・悪邪無信の盛りなる時において、弥陀の名号を指賛して、衆生を勧励して称念せしむれば、必ず往生を得」と。すなわちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんことを恐畏れて、すなわち共に同心・同時におのおの舌相を出だしてあまねく三千世界に覆いて、誠実の言を説きたまわく、「汝等衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切凡夫、罪福の多少、時節の久近を問わず、ただよく上百年を尽くし、下一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念すれば、定んで往生を得ること、必ず疑いなきなり。」このゆえに一仏の所説は、一切仏同じくその事を証誠したまうなり。これを「人に就いて信を立つ」と名づくるなり。抄要