また言わく、「必ず超絶して去つることを得て、安養国に往生せよ。横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ず、道に昇るに窮極なし、往き易くして人なし、その国逆違せず、自然の牽くところなり。」已上
 聖言、明らかに知りぬ。煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相の心行を獲れば、すなわち大乗正定の聚に住せん。正定聚に住すれば、必ず滅度に至る。必ず滅度に至れば、すなわちこれ常楽なり、常楽はすなわちこれ大涅槃なり、すなわちこれ利他教化地の果なり。この身すなわちこれ無為法身なり、無為法身すなわちこれ畢竟平等身なり、畢竟平等身はすなわちこれ寂滅なり、寂滅すなわちこれ実相なり、実相すなわちこれ法性なり、法性すなわちこれ真如なり、真如すなわちこれ一如なり。しかれば、もしは因・もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまうところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆえに、果、また浄なり。知るべし。
 二に「還相回向」と言うは、すなわち利他教化地の益なり。すなわちこれ「必至補処の願」より出でたり。また「一生補処の願」と名づく。また「還相回向の願」と名づくべし。
聖言明知。煩悩成就凡夫、生死罪濁群萌、獲往相心行、即住大乗正定之聚。住正定聚、必至滅度。必至滅度即是常楽、常楽即是大涅槃、即是利他教化地果。是身即是無為法身、無為法身即是畢竟平等身、畢竟平等身即是寂滅、寂滅即是実相、実相即是法性、法性即是真如、真如即是一如也。爾者、若因若果、無有一事非阿弥陀如来清浄願心之所回向成就。因浄故果亦浄也。応知。
二言還相回向者則利他教化地益也。即是出於必至補処之願。亦名一生補処之願。亦可名還相回向之願。