の北のかたにましましけるを、菩薩と礼したてまつりたまいけるなり。「註解往生論」というは、この『浄土論』をくわしう釈したまうを、『註論』ともうす論をつくりたまえるなり。「裁成両巻」というは、『註論』は二巻になしたまうなり。「釈迦才の三巻の浄土論」というは、釈迦才ともうすは、釈というは、釈尊の御弟子とあらわすことばなり。迦才は、浄土宗の祖師なり。知者にておわせし人なり。かの聖人の三巻の『浄土論』をつくりたまえるに、この曇鸞の御ことはあらわせりとなり。
 唐朝光明寺の善導和尚の真像の銘文
 「智栄讃善導別徳云 善導 阿弥陀仏化身 称仏六字 即嘆仏 即懺悔 即発願回向 一切善根荘厳浄土」
 「智栄」ともうすは震旦の聖人なり。善導の別徳をほめたもうていわく、「善導は阿弥陀仏の化身なり」とのたまえり。「称仏六字」というは、南無阿弥陀仏の六字をとなうるとなり。「即嘆仏」というは、すなわち南無阿弥陀仏をとなうるは、仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」というは、南無阿弥陀仏をとなうるはすなわち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになるとともうすなり。「即発願回向」というは、南無阿弥陀仏をとなうるはすなわち安楽浄土に往生せんとおもうになるなり。また一切衆生にこの功徳をあたうるになるとなり。「一切善根荘厳浄土」というは、阿弥陀の三字に一切善根をおさめたまえるゆえに、名号をとなうるはすなわち浄土を荘厳するになるとしるべしとなりと。智栄禅師、善導をほめたまえるなり。
 善導和尚の云わく、「言南無者 即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者 即是其行 以斯義故 必得往生」(玄義分)