うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。「乃至」は、おおきをも、すくなきをも、ひさしきをも、ちかきをも、さきをも、のちをも、みな、かねおさむることばなり。「一念」というは、信心をうるときのきわまりをあらわすことばなり。「至心回向」というは、「至心」は、真実ということばなり。真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもって十方の衆生にあたえたまう御のりなり。「願生彼国」というは、「願生」は、よろずの衆生、本願の報土へうまれんとねがえとなり。「彼国」は、かのくにという。安楽国をおしえたまえるなり。「即得往生」というは、「即」は、すなわちという、ときをへず、日をもへだてぬなり。また即は、つくという。そのくらいにさだまりつくということばなり。「得」は、うべきことをえたりという。真実信心をうれば、すなわち、無碍光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり。「摂」は、おさめたまう、「取」は、むかえとると、もうすなり。おさめとりたまうとき、すなわち、とき・日をもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり。しかれば、「必至滅度」の誓願を『大経』にときたまわく、「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」と願じたまえり。また『経』(如来会)にのたまわく、「若我成仏 国中有情 若不決定 成等正覚 証大涅槃者 不取菩提」とちかいたまえり。この願成就を釈迦如来ときたまわく、「其有衆生 生彼国者 皆悉住於正定之聚 所以者何 彼仏国中 無諸邪聚 及不定聚」(大経)と、のたまえり。これらの文のこころは、「たといわれ仏をえたらんに、くにのうちの人天、定聚にも住して、かならず滅度にいたらずは、仏にならじ」とちかいたまえるこころなり。また、のたまわく、「もしわれ仏にならんに、くにのうちの有情、もし決定して