うことばなり。「邪聚」というは、雑行雑修・万善諸行のひと、報土にはなければなりと、いうなり。「及」は、およぶという。「不定聚」は自力の念仏、疑惑の念仏の人は、報土になしというなり。正定聚の人のみ真実報土にうまるればなり。この文どもはこれ、一念の証文なり。おもうほどはあらわしもうさず。これにておしはからせたまうべきなり。
多念をひがごととおもうまじき事
本願の文に、「乃至十念」と、ちかいたまえり。すでに「十念」とちかいたまえるにてしるべし、一念にかぎらずということを。いわんや「乃至」とちかいたまえり、称名の遍数さだまらずということを。この誓願は、すなわち易往易行のみちをあらわし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまうなり。『阿弥陀経』に、「一日、乃至七日、名号をとなうべし」と釈迦如来ときおきたまえる御のりなり。この経は「無問自説経」ともうす。この経をときたまいしに、如来にといたてまつる人もなし。これすなわち、釈尊出世の本懐をあらわさんとおぼしめすゆえに、無問自説ともうすなり。弥陀選択の本願、十方諸仏の証誠、諸仏出世の素懐、恒沙如来の護念は、諸仏咨嗟の御ちかいをあらわさんとなり。諸仏称名の誓願、『大経』にのたまわく、「設我得仏 十方世界無量諸仏 不悉咨嗟称我名者 不取正覚」と願じたまえり。この悲願のこころは、たといわれ仏をえたらんに、十方世界無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、仏にならじと、ちかいたまえるなり。「咨嗟」ともうすは、よろずの仏にほめられたてまつるともうす御ことなり。
「一心専念」というは、「一心」は、金剛の信心なり。「専念」は、一向専修なり。一向は、余の善にうつらず、