『唯信鈔』にくわしくあらわれたり。「聞名念我」というは、「聞」は、きくという。信心をあらわす御のりなり。「名」は、御なともうすなり。如来のちかいの名号なり。「念我」ともうすは、ちかいのみなを憶念せよとなり。諸仏称名の悲願にあらわせり。憶念は、信心をえたるひとは、うたがいなきゆえに、本願をつねにおもいいずるこころのたえぬをいうなり。「総迎来」というは、「総」は、ふさねてという、すべて、みなというこころなり。「迎」は、むかうるという、まつという。他力をあらわすこころなり。「来」は、かえるという、きたらしむという。法性のみやこへ、むかえいて、きたらしめ、かえらしむという。法性のみやこより、衆生利益のために、この娑婆界にきたるゆえに、「来」をきたるというなり。法性のさとりをひらくゆえに、「来」をかえるというなり。「不簡貧窮将富貴」というは、「不簡」は、えらばず、きらわずという。「貧窮」は、まずしく、たしなきものなり。「将」は、まさにという、もてという、いてゆくという。「富貴」は、とめるひと、よきひとという。これらを、まさにもてえらばず、きらわず、浄土へいてゆくとなり。「不簡下智与高才」というは、「下智」は、智慧あさく、せばく、すくなきものとなり。「高才」は、才学ひろきもの。これらをえらばず、きらわずとなり。「不簡多聞持浄戒」というは、「多聞」は、聖教をひろく、おおく、きき、信ずるなり。「持」は、たもつという。たもつというは、ならいまなぶことを、うしなわず、ちらさぬなり。「浄戒」は、大小乗のもろもろの戒行、五戒八戒、十善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、六万の斎行、梵網の五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒等、すべて道俗の戒品、これらをたもつを「持」という。かようのさまざまの戒品をたもてる、いみじきひとびとも、他力真実の信心をえてのちに、