二尊の御方便にもよおされまいらせて、雑行雑修・自力疑心のおもいなし。無碍光如来の摂取不捨の御あわれみのゆえに、疑心なくよろこびまいらせて、一念するに〔までの〕往生定まりて、誓願不思議と心得候いなんには、聞見〔候う〕にあかぬ浄土の〔聖〕教も、知識にあいまいらせんとおもわんことも、摂取不捨も、信も、念仏も、人のためとおぼえられ候う。今、師主の教によりて〔御教えのゆえ〕、心をぬきて御こころむきをうかがい候うによりて、願意をさとり、直道をもとめえて、正しき真実報土にいたり候わんこと、この度、一念にとげ候いぬる〔聞名にいたるまで〕うれしさ御恩のいたり、その上『弥陀経義集』におろおろ明らかにおぼえられ候う。しかるに、世間のそうそうにまぎれて、一時もしは二時・三時、おこたるといえども、昼夜にわすれず、御あわれみをよろこぶ業力ばかりにて、行住座臥に時所の不浄をもきらわず、一向に金剛の信心ばかりにて、仏恩のふかさ、師主の御とく〔恩徳〕のうれしさ、報謝のためにただ、みなをとなうるばかりにて、日の所作とせず。この様ひがざまにか候うらん。一期の大事ただこれにすぎたるはなし。しかるべくは、よくよくこまかに仰を蒙り候わんとて、わずかにおもうばかりを記して申し上げ候う。さては、京に久しく候いしに、そうそうにのみ候いて、こころのしずかにおぼえず候いし事のなげかれ候いて、わざといかにしてもまかりのぼりて、こころしずかに、せめては五日、御所に候わばやとねがい候うなり。〔噫〕、こうまで申し候うも御恩のちからなり。
 進上、聖人の御所へ 蓮位御房申させ給え
                        慶信上(慶信の花押)