をうけ給わりさだめて候いしかば、上人のわたらせ給わんところには、人はいかにも申せ、たとい悪道にわたらせ給うべしと申すとも、世々生々にも迷いければこそありけめ、とまで思いまいらする身なればと、ようように人の申し候いし時も仰せ候いしなり。さて、常陸の下妻と申し候う所に、さかいの郷と申す所に候いしとき、夢を見て候いしようは、堂供養かとおぼえて、東向に御堂は立ちて候うに、しんかくとおぼえて、御堂の前には松明しろく候うに、松明の西に、御堂の前に、鳥居のようなるに横さまにわたりたるものに、仏を掛けまいらせて候うが、一体は、ただ仏の御顔にてはわたらせ給わで、ただ光の真中、仏の頭光のようにて、正しき御形は見えさせ給わず、ただ光ばかりにてわたらせ給う。いま一体は、正しき仏の御顔にてわたらせ給い候いしかば、「これは何仏にてわたらせ給うぞ」と申し候えば、申人は何人ともおぼえず、「あの光ばかりにてわたらせ給うは、あれこそ法然上人にてわたらせ給え。勢至菩薩にてわたらせ給うぞかし」と申せば、「さて又、いま一体は」と申せば、「あれは観音にてわたらせ給うぞかし。あれこそ善信の御房よ」と申すとおぼえて、うちおどろきて候いしにこそ、夢にて候いけりとは、思いて候いしか。さは候えども、さようの事をば、人にも申さぬと聞き候いしうえ、尼がさようの事申し候うらんは、げにげにしく人も思うまじく候えば、天性、人にも申さで、上人の御事ばかりをば、殿に申して候いしかば、「夢には品別あまたある中に、これぞ実夢にてある。上人をば、所々に勢至菩薩の化身と夢にも見まいらする事あまたありと申すうえ、勢至菩薩は智恵のかぎりにて、しかしながら光にてわたらせ給う」と候いしかども、観音の御事は申さず候いしかども、心ばかりは、その後、うちまかせては思いまいらせず候いしなり。かく御心得候うべし。されば、御臨終はいかにも