摂取不捨のことわりをむねにおさめ、生死のはなれがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとい、弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつわりて往生浄土の業因ぞと、聖人さずけたまうにすかされまいらせて、われ地獄におつというとも、更にくやしむおもいあるべからず。そのゆえは明師にあいたてまつらでやみなましかば、決定、悪道へゆくべかりつる身なるがゆえに、となり。しかるに、善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかばひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりというとも故聖人のわたらせたまうところへまいらんと、おもいかためたれば、善悪の生所、わたくしのさだむるところにあらずというなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。」

3 一 また、のたまわく、「光明寺の和尚 善導の御こと の『大無量寿経』の第十八の念仏往生の願のこころを釈したまうに、「善悪凡夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏 大願業力為増上縁」(玄義分)といえり。このこころは、「善人なればとて、おのれがなすところの善をもって、かの阿弥陀仏の報土へうまるること、かなうべからず」となり。悪人またいうにやおよぶ。おのれが悪業のちから、三悪四趣の生をひくよりほか、豈、報土の正因たらんや。しかれば、善業も要にたたず、悪業もさまたげとならず。善人の往生するも、弥陀如来の別願、超世の大慈大悲にあらずは、かないがたし。悪人の往生、また、かけてもおもいよるべき報仏・報土にあらざれども、仏智の不可思議なる奇特をあらわさんがためなれば、五劫があいだこれを思惟し、永劫があいだこれを行じて、かかるあさましきものが、六趣四生よりほかはすみかもなく、うかぶべき期なきがために、とりわきむねとおこされたれば、悪業に卑下すべからずと、すすめたまうむねあり。されば、おのれをわすれて、