名号のちち、ということも、報土のまさしくうまるべき信心のたねなくは、あるべからず。しかれば、信心をおこして往生を求願するとき、名号もとなえられ、光明もこれを摂取するなり。されば、名号につきて信心をおこす行者なくは、弥陀如来、摂取不捨のちかい、成ずべからず。弥陀如来の摂取不捨の御ちかいなくは、また、行者の往生浄土のねがい、なにによりてか成ぜん。されば、本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願という、このいわれなり。本願寺の聖人の御釈『教行証』にのたまわく、「徳号の慈父ましまさずは、能生の因かけなん。光明の悲母ましまさずは、所生の縁そむきなん。光明・名号の父母、これすなわち外縁とす。真実信の業識、これすなわち内因とす。内外因縁和合して、報土の真身を得証す」(行巻)とみえたり。これをたとうるに、日輪須弥の半にめぐりて、他州をてらすとき、このさかい闇冥たり。他州よりこの南州にちかづくとき、夜すでにあくるがごとし。しかれば、日輪のいずるによりて夜はあくるものなり。世のひと、つねにおもえらく、「夜のあけて日輪はいず」と。いまいうところはしからざるなり。弥陀仏日の照触によりて、無明の長夜、やみすでにはれて、安養往生の業因たる名号の宝珠をばうるなり、としるべし。」
5 一 わたくしにいわく、「根機つたなしとて、卑下すべからず。仏に下根をすくう大悲あり。行業おろそかなりとて、うたがうべからず。『経』(大経)に「乃至一念」の文あり。仏語に虚妄なし。本願にあやまりあらんや。名号を正定業となづくることは、仏の不思議力をたもてば、往生の業、まさしくさだまるゆえなり。もし弥陀の名願力を称念すとも、往生なお不定ならば、正定業とはなづくべからず。われすでに本願の名号を持念す。往生の業、すでに成弁することをよろこぶべし。かるがゆえに、臨終にふたたび名号をとなえずとも、