それ本願の三信心と云うは、至心・信楽・欲生これなり。まさしく願成就したまうには、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」(大経)とらとけり。この文について、凡夫往生の得否は乃至一念発起の時分なり。このとき願力をもって往生決得すと云うは、すなわち摂取不捨のときなり。もし『観経義』によらば、「安心定得」といえる御釈、これなり。また『小経』によらば、「一心不乱」ととける、これなり。しかれば、祖師聖人御相承弘通の一流の肝要、これにあり。ここをしらざるをもって他門とし、これをしれるをもって御門弟のしるしとす。そのほか、かならずしも外相において、一向専修行者のしるしをあらわすべきゆえなし。しかるをいま風聞の説のごとくんば、三経一論について文証をたずねあきらむるにおよばず、ただ自由の妄義をたてて信心の沙汰をさしおきて、起行の篇をもって、まず雑行をさきおきて正行を修すべしとすすむと云々 これをもって一流の至要とするにや。この条、総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。正行五種のうちに、第四の称名をもって正定業とすぐりとり、余の四種をば助業といえり。正定業たる称名念仏をもって往生浄土の正因とはからいつのるすら、なおもて凡夫自力のくわだてなれば、報土往生かなうべからずと云々 そのゆえは、願力の不思議をしらざるによりてなり。当教の肝要、凡夫のはからいをやめて、ただ摂取不捨の大益をあおぐものなり。起行をもって一向専修の名言をたつというとも、他力の安心、決得せずんば、祖師の御己証を相続するにあらざるべし。宿善もし開発の機ならば、いかなる卑劣の輩も願力の信心をたくわえつべし。しるべし。

16 一 当流の門人と号する輩、祖師先徳報恩謝徳の集会のみぎりにありて、往生浄土の信心においてはその