臨終のとき、はじめてえんとはおもうべからず。したがいて、信心開発のとき、摂取の光益のなかにありて往生を証得しつるうえには、いのちのおわるときただそのさとりのあらわるるばかりなり。ことあたらしくはじめて聖衆の来迎にあずからんことを期すべからずとなり。さればおなじきつぎじもの解釈にいわく、「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」といえり。この文のこころは、阿弥陀如来の摂取の心光はつねに行者をてらしまもりて、すでによく無明のやみを破すといえども、貪欲・瞋恚等の悪業、くもきりのごとくして真実信心の天をおおえり。たとえば日のひかりの、くもきりにおおわれたれども、そのしたはあきらかにしてくらきことなきがごとしと、なり。されば信心をうるとき摂取の益にあずかる。摂取の益にあずかるがゆえに正定聚に住す。しかれば、三毒の煩悩は、しばしばおこれども、まことの信心はかれにもさえられず。顛倒の妄念はつねにたえざれども、さらに未来の悪報をばまねかず。かるがゆえに、もしは平生、もしは臨終、ただ信心のおこるとき往生はさだまるぞと、なり。これを「正定聚に住す」ともいい、「不退のくらいにいる」ともなづくるなり。このゆえに聖人またのたまわく、「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆえに。臨終まつことと来迎たのむことは、諸行往生のひとにいうべし。真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに正定聚に住す。正定聚に住するがゆえに、かならず滅度にいたる。滅度にいたるがゆえに、大涅槃を証するなり。かるがゆえに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」といえり。これらの釈にまかせば、真実信心のひと、一向専念のともがら、臨終をまつべからず、来迎を期すべからずということ、そのむねあきらかなるものなり。