るべし。『和讃』にいわく、「願土にいたればすみやかに 無上涅槃を証してぞ すなわち大悲をおこすなり これを回向となづけたり」といえり。これをもってこころうべし。
 「如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言」というは、釈尊出世の元意は、ただ弥陀の本願をときましまさんがために、世にいでたまえり。五濁悪世界の衆生、一向に弥陀の本願を信じたてまつれ、といえるこころなり。
 「能発一念喜愛心」というは、一念歓喜の信心を申すなり。
 「不断煩悩得涅槃」というは、不思議の願力なるがゆえに、わが身には煩悩を断ぜざれども、仏のかたよりはついに涅槃にいたるべき分にさだめましますものなり。
 「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」というは、凡夫も聖人も五逆も謗法も、ひとしく大海に回入すれば、もろもろのみずの、うみにいりて一味なるがごとし、といえるこころなり。
 「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」というは、弥陀如来、念仏の衆生を摂取したまうひかりは、つねにてらしたまいて、すでによく無明の闇を破すといえども、貪欲と瞋恚と、くもきりのごとくして、真実信心の天におおえること、日光のあきらかなるを、くもきりのおおうによりてかくすといえども、そのしたはあきらかなるがごとしといえり。
 「獲信見敬大慶喜」というは、法をききてわすれず、おおきによろこぶひとを、釈尊は「わがよき親友なり」(大経)とのたまえり。