外儀のすがたはことなりと 本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ」(高僧和讃)といえり。「外儀のすがた」というは、在家・出家、男子・女人をえらばざるこころなり。つぎに「本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ」というは、かたちはいかようなりというとも、またつみは十悪・五逆・謗法・闡提のともがらなれども、回心懺悔して、ふかく、かかるあさましき機をすくいまします、弥陀如来の本願なりと信知して、ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめても憶念の心つねにして、わすれざるを、本願たのむ決定心をえたる、信心の行人とはいうなり。さてこのうえには、たとい行住座臥に称名すとも、弥陀如来の御恩を報じまうす念仏なりとおもうべきなり。これを真実信心をえたる決定往生の行者とはもうすなり。あなかしこ、あなかしこ。
  あつき日に ながるるあせは なみだかな かきおくふでの あとぞおかしき
   文明三年七月十八日

3 まず、当流の安心のおもむきは、あながちに、わがこころのわろきをも、また、妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよというにもあらず。ただあきないをもし、奉公をもせよ、猟、すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどいぬるわれらごときのいたずらものを、たすけんとちかいまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもうこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあずかるものなり。このうえには、なにとこころえて念仏もうすべきぞなれば、往生はいまの信力によりて、御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、