聖人へまいりて浄土の法門聴聞したまうに、うつくしくその理耳にとどまらざるによりて、わが本宗のこころをいまだすてやらずして、かえりてそれを浄土宗にひきいれんとせしによりて、その不同これあり。しかりといえども、あながちにこれを誹謗することあるべからず。肝要は、ただわが一宗の安心をよくたくわえて、自身も決定し、ひとをも勧化すべきばかりなり。
 それ、当流の安心のすがたはいかんぞなれば、まずわが身は十悪・五逆・五障・三従のいたずらものなりとふかくおもいつめて、そのうえにおもうべきようは、かかるあさましき機を、本とたすけたまえる、弥陀如来の不思議の本願力なりとふかく信じたてまつりて、すこしも疑心なければ、かならず弥陀は摂取したまうべし。このこころこそ、すなわち他力真実の信心をえたるすがたとはいうべきべきなり。かくのごときの信心を一念とらんずることは、さらになにのようもいらず。あら、こころえやすの他力の信心や。あら、行じやすの名号や。しかれば、この信心をとるというも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字をこころえわけたるが、すなわち他力信心の体なり。また南無阿弥陀仏というはいかなるこころぞといえば、南無という二字は、すなわち極楽へ往生せんとねがいて弥陀をふかくたのみたてまつるこころなり。さて阿弥陀仏というは、かくのごとくたのみたてまつる衆生をあわれみましまして、無始曠劫よりこのかたの、おそろしきつみとがの身なれども、弥陀如来の光明の縁にあうによりて、ことごとく無明業障のふかきつみとがたちまちに消滅するによりて、すでに正定聚のかずに住す。かるがゆえに、凡身をすてて仏身を証するといえるこころを、すなわち阿弥陀如来とは申すなり。されば、阿弥陀という三字をば、おさめたすけすくうとよめるいわれあるがゆえなり。