一 国の仏法の次第、非義たるあいだ、正義におもむくべき事。
 一 当流にたつるところの他力信心をば、内心にふかく決定すべし。
 一つには、一切の神明ともうすは、本地は仏菩薩の変化にてましませども、この界の衆生をみるに、仏菩薩にはすこしちかづきにくくおもうあいだ、神明の方便にかりに神とあらわれて、衆生に縁をむすびて、そのちからをもってたよりとして、ついに仏法にすすめいれんがためなり。これすなわち、「和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のおわり」(摩訶止観)といえるはこのこころなり。さればいまの世の衆生、仏法を信じ、念仏をももうさんひとをば、神明はあながちにわが本意とおぼしめすべし。このゆえに、弥陀一仏の悲願に帰すれば、とりわけ神明をあがめず信ぜねども、そのうちにおなじく信ずるこころはこもれるゆえなり。
 二つには、諸仏・菩薩ともうすは、神明の本地なれば、いまのときの衆生は、阿弥陀如来を信じ念仏もうせば、一切の諸仏・菩薩は、わが本師阿弥陀如来を信ずるに、そのいわれあるによりて、わが本懐とおぼしめすがゆえに、別して諸仏をとりわき信ぜねども、阿弥陀一仏を信じたてまつるうちに、一切の諸仏も菩薩もみなことごとくこもれるがゆえに、ただ阿弥陀如来を一心一向に帰命すれば、一切の諸仏の智慧も功徳も、弥陀一体に帰せずということなきいわれなればなりとしるべし。
 三つには、諸宗・諸法を誹謗することおおきなるあやまりなり。そのいわれすでに浄土の三部経にみえたり。また諸宗の学者も、念仏者をばあながちに誹謗すべからず。自宗他宗ともにそのとがのがれがたきこと、道理必然せり。