凡夫、五障の女質をば、われたすくべきという大願をばおこしたまいけり。ありがたしというもなおおろかなり。これによりて、むかし、釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典をとかれしとき、提婆・阿闍世の逆害をおこし、釈迦、韋提をして安養をねがわしめたまいしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して、王宮に降臨して、韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて、弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。このゆえに法華と念仏と同時の教といえることは、このいわれなり。これすなわち末代の五逆・女人に、安養の往生をねがわしめんがための方便に、釈迦、韋提・調達・闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりと、しらせたまえりとしるべし。あなかしこ、あなかしこ。
   文明九歳九月二十七日記之

4 それ、秋もさり春もさりて、年月をおくること、昨日もすぎ今日もすぐ。いつのまにかは年老のつもるらんともおぼえず、しらざりき。しかるにそのうちには、さりとも、あるいは花鳥風月のあそびにもまじわりつらん。また歓楽苦痛の悲喜にもあいはんべりつらんなれども、いまにそれともおもいいだすこととては、ひとつもなし。ただいたずらにあかし、いたずらにくらして、老いのしらがとなりはてぬる身のありさまこそかなしけれ。されども今日までは無常のはげしきかぜにもさそわれずして、わが身ありがおの体を、つらつら案ずるに、ただゆめのごとし、まぼろしのごとし。いまにおいては、生死出離の一道ならでは、ねがうべきかたとてはひとつもなく、またふたつもなし。これによりて、ここに未来悪世のわれらごときの衆生を、たやすくたすけたまう