ただ一心に弥陀をたのみ、後生たすけたまえとふかくたのみ申さん人をば、かならず御たすけあらんことは、さらさらつゆほどもうたがいあるべからざるものなり。このうえには、はや、しかと御たすけあるべきことのありがたさよとおもいて、仏恩報謝のために念仏申すべきばかりなり。あなかしこ、あなかしこ。
                    八十三歳 御判

11 南無阿弥陀仏と申すは、いかなる心にて候うや。しかれば、何と弥陀をたのみて、報土往生をばとぐべく候うやらん。これを心得べきようは、まず「南無阿弥陀仏」の六字のすがたをよくよく心得わけて、弥陀をばたのむべし。そもそも、南無阿弥陀仏の体は、すなわちわれら衆生の、後生たすけたまえとたのみもうすこころなり。すなわちたのむ衆生を、阿弥陀如来のよくしろしめして、すでに無上大利の功徳をあたえましますなり。これを衆生に回向したまえるといえるはこのこころなり。されば弥陀をたのむ機を阿弥陀仏のたすけたまう法なるがゆえに、これを機法一体の南無阿弥陀仏といえるはこのこころなり。これすなわちわれらが往生のさだまりたる、他力の信心なりとは、こころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
   明応六年五月二十五日書之訖 八十三歳

12 そもそも毎月両度の寄合の由来は、なにのためぞというに、さらに他のことにあらず。自身の往生極楽の、信心獲得のためなるがゆえなり。しかれば、往古よりいまにいたるまでも、毎月の寄合ということは、いずくにもこれありといえども、さらに信心の沙汰とては、かつてもってこれなし。ことに近年は、いずくにも寄合のときは、ただ酒飯茶なんどばかりにて、みなみな退散せり。これは仏法の本意には、しかるべからざる次第なり。