いわく、「五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」(正像末和讃)。この和讃の心は、「五濁悪世の衆生」というは、一切我等女人悪人の事なり。されば、かかるあさましき一生造悪の凡夫なれども、弥陀如来を一心一向にたのみまいらせて、後生たすけ給えともうさんものをば、かならずすくいましますべきこと、さらに疑うべからず。かように弥陀をたのみもうすものには、不可称不可説不可思議の大功徳をあたえましますなり。「不可称不可説不可思議の功徳」ということは、かずかぎりもなき大功徳のことなり。この大功徳を、一念に弥陀をたのみもうす我等衆生に回向しましますゆえに、過去未来現在の三世の業障、一時につみきえて、正定聚のくらい、また等正覚のくらいなんどにさだまるものなり。このこころを、また『和讃』にいわく、「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益ゆえ 等正覚にいたるなり」(正像末和讃意)といえり。「摂取不捨」というは、これも一念に弥陀をたのみたてまつる衆生を、光明のなかにおさめとりて、信ずるこころだにもかわらねば、すてたまわずというこころなり。このほかにいろいろの法門どもありといえども、ただ一念に弥陀をたのむ衆生は、みなことごとく報土に往生すべきこと、ゆめゆめうたがうこころあるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。

7 それ、女人の身は、五障・三従とて、おとこにまさりてかかるふかきつみのあるなり。このゆえに、一切の女人をば、十方にまします諸仏も、わがちからいては、女人をばほとけになしたまうことさらになし。しかるに阿弥陀如来こそ、女人をばわれひとりたすけんという大願をおこして、すくいたまうなり。このほとけをたのまずは、女人の身のほとけになるということあるべからざるなり。これによりて、なにとこころをももち、