またなにと阿弥陀ほとけをたのみまいらせて、ほとけになるべきぞなれば、なにのようもいらず、ただふたごころなく、一向に阿弥陀仏ばかりをたのみまいらせて、後生たすけたまえとおもうこころひとつにて、やすくほとけになるべきなり。このこころの、つゆちりほどもうたがいなければ、かならず、かならず、極楽へまいりて、うつくしきほとけとはなるべきなり。さてこのうえにこころうべきようは、ときどき念仏をもうして、かかるあさましきわれらを、やすくたすけまします阿弥陀如来の御恩を、御うれしさ、ありがたさを報ぜんために、念仏もうすべきばかりなりと、こころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

8 それ、五劫思惟の本願というも、兆載永劫の修行というも、ただ我等一切衆生をあながちにたすけ給わんがための方便に、阿弥陀如来御身労ありて、南無阿弥陀仏という本願をたてましまして、まよいの衆生の、一念に阿弥陀仏をたのみまいらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚とらじとちかい給いて、南無阿弥陀仏となりまします。これすなわち我等がやすく極楽に往生すべきいわれなりとしるべし。されば、「南無阿弥陀仏」の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり。このゆえに南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏の我等をたすけたまえるこころなり。このゆえに「南無」の二字は、衆生の、弥陀如来にむかいたてまつりて、後生たすけたまえともうすこころなるべし。かように弥陀をたのむ人を、もらさずすくいたまうこころこそ、「阿弥陀仏」の四字のこころにてありけりとおもうべきものなり。これによりて、いかなる十悪・五逆・五障・三従の女人なりとも、もろもろの雑行をすてて、ひたすら、後生たすけたまえとたのまん人をば、たとえば十人もあれ、百人もあれ、みなことごとく、もらさず