とにこのたぐいか。
  つぎに、念仏を信ずる人のいわく、往生浄土のみちは、信心をさきとす。信心決定しぬるには、あながちに称念を要とせず。『経』(大経)にすでに「乃至一念」ととけり。このゆえに、一念にてたれりとす。遍数をかさねんとするは、かえりて仏の願を信ぜざるなり。念仏を信ぜざる人とて、おおきにあざけりふかくそしると。
 まず、専修念仏というて、もろもろの大乗の修行をすてて、つぎに、一念の義をたてて、みずから念仏の行をやめつ。まことにこれ魔界たよりをえて、末世の衆生をたぶろかすなり。この説ともに得失あり。往生の業、一念にたれりというは、その理まことにしかるべしというとも、遍数をかさぬるは不信なりという、すこぶるそのことばすぎたりとす。一念をすくなしとおもいて、遍数をかさねずは往生しがたしとおもわば、まことに不信なりというべし。往生の業は一念にたれりといえども、いたずらにあかし、いたずらにくらすに、いよいよ功をかさねんこと要にあらずやとおもうて、これをとなえば、ひめもすにとなえ、よもすがらとなうとも、いよいよ功徳をそえ、ますます業因決定すべし。善導和尚は、「ちからのつきざるほどはつねに称念す」といえり。これを不信の人とやはせん。ひとえにこれをあざけるも、またしかるべからず。一念といえるは、すでに経の文なり。これを信ぜずは、仏語を信ぜざるなり。このゆえに、一念決定しぬと信じて、しかも一生おこたりなくもうすべきなり。これ、正義とすべし。念仏の要義おおしといえども、略してのぶることかくのごとし。