と、あるいは、「今信知 弥陀本弘誓願 及称名号 下至十声一声 定得往生 乃至一念 無有疑心」(礼讃)と、あるいは、「若七日及一日 下至十声 乃至一声一念等 必得往生」(礼讃)と、いえり。かようにこそはおおせられてそうらえ。これらの文は、たしかに一念多念なかあしかるべからず。ただ、弥陀の願をたのみはじめてん人は、いのちをかぎりとし、往生を期として、念仏すべしと、おしえさせたまいたるなり。ゆめゆめ偏執すべからざることなり。こころのそこをば、おもうようにもうしあらわしそうらわねども、これにてこころえさせたまうべきなり。
 おおよそ、一念の執かたく、多念のおもいこわき人々は、かならずおわりのわるきにて、いずれもいずれも、本願にそむきたるゆえなりということは、おしはからわせたまうべし。されば、かえすがえすも、多念すなわち一念なり、一念すなわち多念なりということわりを、みだるまじきなり。
 南無阿弥陀仏
   建長七 乙卯 四月二十三日
   愚禿釈善信 八十三歳 書写之