いでて、やみのはれぬこと、あるべからず。かるがゆえに、日はいでたるか、いでざるかをおもうべし。やみは、はれざるか、はれたるかをうたがうべからず。仏は正覚なりたまえるか、いまだなりたまわざるかを、分別すべし。凡夫の、往生をうべきか、うべからざるかを、うたがうべからず。「衆生往生せずは仏にならじ」と、ちかいたまいし法蔵比丘の、十劫にすでに成仏したまえり。仏体よりは、すでに成じたまいたりける往生を、つたなく今日までしらずして、むなしく流転しけるなり。かるがゆえに、『般舟讃』には、「おおきにすべからく慚愧すべし、釈迦如来はまことにこれ慈悲の父母なり」といえり。慚愧の二字をば、天にはじ、人にはず、とも釈し、自にはじ、他にはず、とも釈せり。なにごとをおおきにはずべしというぞというに、弥陀は兆載永劫のあいだ無善の凡夫にかわりて願行をはげまし、釈尊は五百塵点劫のむかしより八千遍まで世にいでて、かかる不思議の誓願をわれらにしらせんとしたまうを、いままできかざることをはずべし。機より成ずる大小乗の行ならば、法はたえなれども、機がおよばねばちからなし、ということもありぬべし。いまの他力の願行は、行は仏体にはげみて功を無善のわれらにゆずりて、謗法闡提の機、法滅百歳の機まで成ぜずということなき功徳なり。このことわりを慇懃につげたまうことを信ぜず、しらざることをおおきにはずべしというなり。「三千大千世界に芥子ばかりも釈尊の身命をすてたまわぬところはなし」(法華経)。みなこれ他力を信ぜざるわれらに信心をおこさしめんと、かわりて難行苦行して縁をむすび、功をかさねたまいしなり。この広大の御こころざしをしらざることをおおきにはじはずべしというなり。このこころをあらわさんとて、「種々の方便をもって、われらが無上の信心を発起す」(般舟讃)と釈せり。無上の信心というは、他力の三信なり。つ