ぎに「種々の方便をとく教文ひとつにあらず」(同)というは、諸経随機の得益なり。凡夫は左右なく他力の信心を獲得することかたし。しかるに自力の成じがたきことをきくとき、他力の易行も信ぜられ、聖道の難行をきくに、浄土の修しやすきことも信ぜらるるなり。おおよそ仏のかたよりなにのわずらいもなく成就したまえる往生を、われら煩悩にくるわされて、ひさしく流転して不思議の仏智を信受せず。かるがゆえに三世の衆生の帰命の念も、正覚の一念にかえり、十方の有情の称念の心も、正覚の一念にかえる。さらに、機において一称一念もとどまることなし。名体不二の弘願の行なるがゆえに、名号すなわち正覚の全体なり。正覚の体なるがゆえに、十方衆生の往生の体なり。往生の体なるがゆえに、われらが願行ことごとく具足せずということなし。かるがゆえに『玄義』にいわく、「いまこの『観経』のなかの十声の称仏には、すなわち十願ありて十行具足せり。いかんが具足せる。南無というはすなわちこれ帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏というは、すなわちこれその行なり。この義をもってのゆえに、かならず往生をう」といえり。下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆえなり。阿弥陀仏の凡夫の願行を成ぜしいわれを領解するを、三心ともいい、三信ともとき、信心ともいうなり。阿弥陀仏は凡夫の願行を名に成ぜしゆえを口業にあらわすを、南無阿弥陀仏という。かるがゆえに、領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかえる。名号も機にはとどまらず、となうればやがて弘願にかえる。かるがゆえに、浄土の法門は、第十八の願を、よくよくこころうるほかには、なきなり。「如無量寿経四十八願中 唯明専念弥陀名号得生」(定善義)とも釈し、「又此経定散文中 唯標専念弥陀名号得生」(同)