なるを「専復専」(法事讃)というなり。この正定業の体は、機の三業のくらいの念仏にあらず、時節の久近をとわず、行住坐臥をえらばず、摂取不捨の仏体すなわち凡夫往生の正定業なるゆえに、名号も名体不二のゆえに正定業なり。この機法一体の南無阿弥陀仏になりかえるを、念仏三昧という。かるがゆえに、機の念・不念によらず、仏の無碍智より機法一体に成ずるゆえに、名号すなわち無為無漏なり。このこころをあらわして、極楽無為というなり。念仏三昧というは、機の念を本とするにあらず、仏の大悲の、衆生を摂取したまえることを念ずるなり。仏の功徳も、もとより、衆生のところに機法一体に成ぜるゆえに、帰命の心のおこるというも、はじめて帰するにあらず。機法一体に成ぜし功徳が、衆生の意業に、うかびいずるなり。南無阿弥陀仏と称するも、称して仏体にちかづくにあらず、機法一体の正覚の功徳、衆生の口業にあらわるるなり。信ずれば仏体にかえり、称すれば仏体にかえるなり。
 一、自力・他力、日輪の事。
 自力にて往生せんとおもうは、闇夜に、わがまなこのちからにて、ものをみんとおもわんがごとし。さらにかなうべからず。日輪のひかりをまなこにうけとりて所縁の境をてらしみる、これ、しかしながら日輪のちからなり。ただし、日のてらす因ありとも、生盲のものはみるべからず、また、まなこひらきたる縁ありとも、闇夜にはみるべからず。日とまなこと、因縁和合してものをみるがごとし。帰命の念に本願の功徳をうけとりて、往生の大事をとぐべきものなり。帰命の心は、まなこのごとし、摂取のひかりは、日のごとし。南無は、すなわち帰命、これ、まなこなり。阿弥陀仏は、すなわち、他力弘願の法体、これ日輪なり。よって、本願の