となえたりしかども、往生せざりしように、臨終にこえをいだすとも、帰命の信心おこらざらんものは、人天に生ずべしと、『守護国界経』にみえたり。されば、たださきの四人ながら、帰命の心おこりたらば、みな往生しけるにてあるべし。天親菩薩の『往生論』に「帰命尽十方無碍光如来」といえり。ふかき法も、あさきたとえにてこころえらるべし。たとえば日は観音なり。その観音のひかりをば、みどり子よりまなこにえたれども、いとけなきときはしらず。すこしこざかしくなりて、自力にて、「わが目のひかりにてこそあれ」とおもいたらんに、よく日輪のこころをしりたらんひと、「おのが目のひかりならば、よるこそものをみるべけれ、すみやかにもとの日光に帰すべし」といわんを信じて、日天のひかりに帰しつるものならば、わがまなこのひかり、やがて観音のひかりなるがごとし。帰命の義もまたかくのごとし。しらざるときのいのちも、阿弥陀の御いのちなりけれども、いとけなきときはしらず、すこしこざかしく自力になりて、「わがいのち」とおもいたらんおり、善知識「もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ」とおしうるをききて、帰命無量寿覚しつれば、「わがいのちすなわち無量寿なり」と信ずるなり。かくのごとく帰命するを、正念をう、とは釈するなり。すでに、帰命して正念をえたらんものは、たとい、かせおもくして、この帰命ののち、無記になるとも往生すべし。すでに『群疑論』に、「無記の心ながら往生す」というは、「摂取の光明にてらされぬれば、その無記の心はやみて、慶喜心にて往生す」といえり。また『観経』の下三品は、いまだ帰命せざりしときは、地獄の相、現じて、狂乱せしかども、知識にすすめられて、帰命せしかば往生しき。また平生に帰命しつるひとは、いきながら摂取の益にあずかるゆえに、臨終にも、心、顛倒せずして往生す。これを正念往生となづくるなり。また、