佛阿彌陀如來名號を解したまはく、「何が故ぞ阿彌陀と号する、彼の佛の光明无量にして、十方國を照たまふに鄣碍する所无し。是の故に阿彌陀と号したてまつる」と。又(小經)「彼の佛の壽命及び其の人民も、无量无邊阿僧祇なり、故に阿彌陀と名づけたてまつる」。 問曰。若无碍光如來の光明无量にして十方國土を照したまふに鄣碍所する无しと言はば、此の間の衆生何を以か光照を蒙らざらむや、光り照らさざる所有らば、豈に碍有非ずや。答曰。碍は衆生に屬す光の碍には非ず。譬へ日光は四天下に周ねけれども、盲者見ざるが如し、日光の周ねざるには非るなり。亦密雲の洪きに霔 灌之句反 げども頑石の潤おほざるが如し。雨の洽 霔下拾反 おほざるには非るなり。若一佛三千大千世界を主領すと言ふは、是れ聲聞論の中の説なり。若し諸佛遍く十方无量无邊世界を領すと言ふは、是大乘論の中の説なり。天親菩薩、今盡十方无碍光如來と言たまふは、即是彼の如來の名に依る、彼の如來の光明智相の如く讃嘆するなり。故に知ぬ、此の句は是讃嘆門なり。
「願生安樂國」は、此の一句は是作願門なり。天親菩薩の歸命の意なり。其れ安樂の義は具に下の觀察門の中に在り。問曰。大乘經論の中に、處處に衆生は畢竟无生にして虚空の如しと説けり、云何ぞ天親菩薩願生と言たまふや。答曰。衆生无生にして虚空の如しと説くに二種有り。一には凡夫の如き所謂實の衆生、凡夫の見る所實の生死の如きは、此の所見の事畢竟じてあらゆること无きこと龜毛の如し虚空の如し。二には謂く諸法は因縁生の故に即是不生なり、あらゆること无きこと虚空の如し。天親菩薩願ずる所の生は是れ因縁の義なり、因縁の義の故に假に生と名く、凡夫の實の衆生實の生死有と謂ふが如きには非るなり。 問曰。何の義に依てか往生と説くや。答曰。此の間の假名人の中に於て五念門を修するに、