夫れ衆生は別報の躰と爲す、國土は共報の用と爲す。躰用一にあらざる所以を知るべし。然に諸法は心をして无餘の境界を成ず。衆生及び器、復異を得ず一を得ず。一ならざるは則ち義をして分つ。異ならざるは同じく淸淨なればなり。器は用なり。謂はく彼の淨土は是彼の淸淨の衆生の受用する所なるが故に名て器と爲す。淨食に不淨の器を用ば器不淨なるを以ての故に食亦不淨なり、不淨の食に淨器を用ば食不淨なるが故に器亦不淨なるが如し。要ず二つ倶に潔くして乃ち淨と稱することを得。是を以て一つ淸淨の名に必ず二種を攝すと。 問曰。衆生淸淨と言ふは則ち是佛と菩薩となり。彼の諸の人天此の淸淨の數に入ることを得やいなや。答曰。淸淨と名くことを得るは實の淸淨に非ず。譬ば出家の聖人は煩惱の賊を殺すを以ての故に名づけて比丘と爲す、凡夫の出家の者の持戒・破戒皆比丘と名くるが如し。又灌頂王子の初生の時に、三十二相を具して即ち七寶の爲に屬せらる、未だ轉輪王の事を爲すこと能はずと雖も亦轉輪王と名くるが如し。其れ必ず轉輪王と爲るべきを以ての故なり。彼の諸の人天、亦復是の如し。皆大乘正定の聚に入て、畢竟じて當に淸淨法身を得べし。當に得べきを以ての故に淸淨と名くることを得るなりと。

善巧攝化は、
是の如く菩薩、奢摩他と毗婆舍那、廣略に修行して、柔輭心を成就すと。
「柔輭心」と、謂く廣略の止觀相順し修行して不二の心を成ぜるなり。譬ば水を以て影を取るに淸と靜と相ひ資けて成就するが如きなり。