[第一大門 一、敎興所由]
第一大門の中、敎興の所由を明して、時に約し機に被らしめて淨土に勸歸せしむれば、若し敎時機に赴けば脩し易く悟り易し、若し機と敎と時と乖けば脩し難く入り難し。是の故に『正法念經』(座禪三昧經卷下意?)に云く。「行者一心に道を求めん時、常に當に時と方便とを觀察すべし。若し時を得ざれば方便無し。是を名けて失と爲す、利と名けず。何とならば、濕へる木を攅りて以て火を求めんに火得べからず、時に非ざるが故に、若し乾きたる薪を折りて以て水を覓めんに、水得べからず、智無きが如しの故に」と。是の故に『大集の月藏經』(大集經卷五五意)に云く。「佛滅度の後の第一の五百年には、我が諸の弟子慧を學ぶこと堅固を得ん。第二の五百年には、定を學ぶこと堅固を得ん。第三の五百年には、多聞・讀誦を學ぶこと堅固を得ん。第四の五百年には、塔寺を造立し福を脩し懺悔すること堅固を得ん。第五の五百年には、白法隱滯して多く諍訟有らん。微しき善法有りて堅固を得ん」と。又彼の『經』(大集月藏經卷一一・一七・二六等意?)に云く。「諸佛の世に出でたまふに四種の法有りて衆生を度したまふ。何等をか四と爲す。一には口に十二部經を説く。即ち是法施もて衆生を度したまふなり。二には諸佛如來には無量の光明・相好有ます。一切衆生、但能く心を繋けて觀察すれば益を獲ざるといふこと無し。是即ち身業もて衆生を度したまふなり。三には無量の德用・神通道力・種種の變化有ます。即ち是神通力もて衆生を度したまふなり。四には諸佛如來には無量の名號有ます。若しは總若しは別なり。其れ衆生有りて心を繋けて稱念すれば、障を除き益を獲て皆佛前に生ぜずといふこと莫し。即ち是名號もて衆生を度したまふなり」と。今の時の衆生を計るに即ち佛世を去りたまひて後の第四の五百年に當れり。正しく是懺悔し福を脩し、佛の名號を稱すべき時の者なり。若し一念阿彌陀佛を稱するに、即ち能く八十億劫の生死の罪を除卻せん。一念既に爾なり、況や常念に脩するは即ち是恆に懺悔する人なり。又若し聖を去ること近ければ即ち前の者定を脩し慧を脩するは是其の正學にして、後の者は是兼なり。如し聖を去ること已に遠ければ則ち後の者名を稱するは是正にして、