若し佛經を聞きて一反善を念ずれば罪即ち消盡す」と。是を在心と名く。二に云何が縁に在るとは、謂く彼の人罪を造る時自ら妄想に依止し煩惱果報の衆生に依て生ず。今此の十念は無上の信心に依止し阿彌陀如來の眞實淸淨無量の功德の名號に依て生ず。譬へば人有りて毒箭に中て所れ筋を徹し骨を破ら被んに、若し滅除藥の鼓の聲を聞けば即ち箭出で毒除こるが如し。豈彼の箭深く毒厲しくして鼓の音聲を聞けども箭を拔き毒を去ること能はずと言ふことを得べけんや。是を在縁と名く。三に云何が決定に在るとは、彼の人罪を造る時自ら有後心・有間心に依止して生ず。今此の十念は無後心・無間心に依止して起す。是を決定と爲す。又『智度論』に云く。「一切衆生の臨終の時、刀風形を解き、死苦來り逼るに大怖畏を生ず。是の故に善知識に遇ひて大勇猛を發し、心心相續して十念すれば、即ち是增上の善根もて便ち往生を得」。又「人有りて敵に對して陣を破るに一形の力一時に盡く用ふるが如し。其の十念の善も亦是くの如し」。又「若し人臨終の時一念の邪見を生ずれば、增上の惡心即ち能く三界の福を傾けて即ち惡道に入る」と。 問て曰く。既に終に垂とするに十念の善能く一生の惡業を傾けて淨土に生ずることを得と云はば、未だ知らず幾の時をか十念と爲すや。答て曰く。經に説きて云ふが如し。百一の生滅を一刹那と成し、六十の刹那を以て一念と爲すと。此經論に依て汎く念を解すなり。今の時は念を解するに此の時節を取らず。但阿彌陀佛を憶念して、若しは總相若しは別相、所縁に隨ひて觀じ、十念を逕て他の念想の間雜すること無き、是を十念と名く。又十念相續と云ふは、是聖者の一の數の名なるのみ。但能く念を積み思を凝らして他事を縁ぜざれば業道成辨せしめて便ち罷みぬ。用ひざれ。亦未だ之が頭數を勞はしく記せず。又云く。