精懃習心の者は終時に悔恨無し。心意既に專至なれば錯亂の念有ること無し。智者は勤めて心を投ずれば臨終に意散ぜず。 習心專至ならざれば臨終に必ず散亂す。心若し散亂する時は馬を調するに磑を用ひ、若し其の鬪戰の時には廻旋して直ちに行かざるが如くせよ(以上卷八)」と。 第五に又問て曰く。一切衆生皆佛性有り。遠劫より以來應に多佛に値ふべし、何に因てか今に至るまで自ら生死に輪廻して火宅を出でざるや。答て曰く。大乘の聖敎に依るに良に二種の勝法を得て以て生死を排はざるに由てなり。是を以て火宅を出でず。何者をか二と爲る。一には謂く聖道、二には謂く往生淨土なり。其の聖道の一種は今の時證し難し。一には大聖を去ること遙遠なるに由る。二には理深く解微なるに由る。是の故に『大集月藏經』(卷五五意)に云く。「我が末法の時の中に億億の衆生、行を起し道を修せんに未だ一人も得る者有らず。當今は末法にして、現に是五濁惡世なり、唯淨土の一門有りて通入すべき路なり」と。是の故に『大經』(卷上意)に云く。「若し衆生有りて縱令ひ一生惡を造れども、命終の時に臨みて十念相續して我が名字を稱せんに、若し生れずば正覺を取らじ」と。又復一切衆生、都て自ら量らず。若し大乘に據らば眞如實相第一義空、曾て未だ心に措かず。若し小乘を論ぜば見諦修道に修入し、乃至那含・羅漢、五下を斷じ五上を除くこと、道俗を問ふこと無く、未だ其の分に有らず。縱ひ人天の果報有るも、皆五戒・十善の爲に能く此の報を招く。然るに持ち得る者は甚だ希なり。若し起惡造罪を論ぜば、何ぞ暴風駃雨に異ならんや。是を以て諸佛の大慈、淨土に勸歸せしめたまふ。縱使ひ一形惡を造れども但能く意を繋けて、專精に常に能く念佛すれば、一切の諸障自然に消除して、定んで往生を得ん。何ぞ思量せずして都て去く心無きや。
[第三大門 四、引證勸信]
自下第四に聖敎を引きて證成して信を勸め生を求めしむとは『觀佛三昧經』(卷九意)に依るに云く。「爾の時に會中に財首菩薩有りて、