聞き已りて受持して三昧より起ちて能く四衆の爲に是の法を演説したまふ。佛堅意に告げたまはく。是を菩薩の一相三昧門に入ると名く」と。
第二に『文殊般若』(卷下意)に依て一行三昧を明かさば、「時に文殊師利、佛に白して言さく。世尊、云何なるをか名けて一行三昧と爲す。佛言はく。一行三昧とは、若し善男子・善女人應に空間の處に在りて諸の亂意を捨て佛の方所に隨ひて端身正向にして相貌を取らず、心を一佛に繋けて專ら名字を稱し念ずること休息無かるべし。即ち是の念の中に能く過・現・未來の三世の諸佛を見たてまつる。何を以ての故に、是の佛を念ずる功德、無量無邊にして即ち無量の諸佛の功德と無二なればなり。是を菩薩の一行三昧と名く」と。
第三に『涅槃經』に依るに佛言はく。若し人但能く心を至して常に念佛三昧を修すれば、十方諸佛恆に此の人を見はすこと現に前に在すが如しと。是の故に『涅槃經』(北本卷一八・南本卷一六意)に云く。「佛迦葉菩薩に告げたまはく。若し善男子・善女人有りて、常に能く心を至し專ら念佛する者は、若しは山林にも在れ若しは聚落にも在れ、若しは晝若しは夜、若しは坐若しは臥に、諸佛世尊常に此の人を見はすこと目の前に現ぜるが如し。恆に此の人の與にして住して施を受けん」と。
第四に『觀經』及び餘の諸部に依るに、所修の萬行但能く廻願して皆生ぜざるは莫し。然るに念佛の一行を將て要路と爲す。何となれば聖敎を審量するに始終の兩益有り。若し善を生じ行を起さんと欲はば則ち普く諸度を該ぬ。若し惡を滅して災を消すは則ち總じて諸鄣を治す。故に下に『經』(觀經意)に云く。「念佛の衆生を攝取して捨てたまはず、壽盡きて必ず生ず」と。此を始益と名く。終益と言ふは、『觀音授記經』(意)に依るに云く。「阿彌陀佛は世に住したまふこと長久にして兆載永劫なるも、亦滅度したまふこと有り。般涅槃の時、唯觀音・勢至有りて安樂に住持して十方を接引せん。