其の佛の滅度亦住世の時節と等同ならん。然るに彼の國の衆生は、一切佛を覩見したてまつる者有ること無し。唯一向に阿彌陀佛を專念して往生する者のみ有りて、常に彌陀現に在まして滅したまはずと見る」と。此れ即ち是其の終時の益なり。修する所の餘行、廻向して皆生ずるも、世尊の滅度に覩ると覩ざると有り。後代を勸めて審量して遠益に沾さしむるなり。
第五に『般舟經』(卷上意)に依るに云く。「時に跋陀和菩薩有り、此の國土に於て阿彌陀佛有ますと聞きて數數念を係く。是の念に因るが故に阿彌陀佛を見たてまつる。既に佛を見たてまつり已りて即ち從ひて啓問す。當に何なる法を行じてか彼の國に生ずることを得べき。爾の時阿彌陀佛、是の菩薩に語りて言はく。我が國に來生せんと欲はん者は常に我が名を念じて休息有ること莫れ。是の如くして我が國土に來生することを得ん。當に佛身の三十二相悉く皆具足して、光明徹照し端正無比なるを念ずべし」と。
第六に『大智度論』(卷七意)に依るに三番の解釋有り。「第一には佛は是無上法王なり、菩薩は法臣と爲す。尊ぶ所重くする所唯佛世尊なり。是の故に當に常に念佛すべきなり。第二に諸の菩薩有りて自ら云く。我曠劫より以來世尊我等が法身・智身・大慈悲身を長養したまふことをを蒙ることを得たりき。禪定・智慧、無量の行願、佛に由て成ることを得たり。報恩の爲の故に常に佛に近づかんことを願ず。亦大臣の王の恩寵を蒙りて常に其の主を念ふが如し。第三に諸の菩薩有りて復是の言を作さく。我因地に於して惡知識に遇ひて般若を誹謗して惡道に墮しき、無量劫を經て餘行を修すと雖も未だ出づることを得ること能はず。後に一時に於て善知識の邊に依りしに、我を敎へて念佛三昧を行ぜしむ。其の時に即ち能く諸鄣を併せ遣り方に解脱を得しむ。斯の大益有るが故に願じて佛を離れず」と。