是の故に『淨土論』(論註卷下意)に云く。「觀佛國土淸淨味・攝受衆生大乘味・類事起行願取佛土味・畢竟住持不虚作味、是の如き等の無量の佛道の味有り」と。故に是相を取ると雖も執縛に當るに非ず。又彼の淨土に言ふ所の相とは即ち是無漏の相、實相の相なり。
[第七大門 二、二土修道]
第二段の中に此彼の修道に功を用ふるに輕重ありて報を獲るに眞僞あることを明すとは、若し發心して西に歸せんと欲する者は、單へに少時の禮・觀・念等を用ひて、壽の長短に隨ひて命終の時に臨めば光臺迎接して迅く彼の方に至り位不退に階ふ。是の故に『大經』(卷上意)に云く。「十方の人天我が國に來生して、若し畢に滅度に至らずして更に退轉有らば、正覺を取らじ」と。此の方は多時に具に施・戒・忍・進・定・慧を修して未だ一萬劫を滿たず已來は、恆に未だ火宅を免れず、顛倒墜墮す。故に功を用ふることは至て重く報を獲ることは僞なりと名く。『大經』(卷下意)に復云く。「我が國に生ずる者は橫に五惡趣を截る」と。今此は彌陀の淨刹に約對して娑婆の五道を齊しく惡趣と名く。地獄・餓鬼・畜生は純惡の所歸なれば名けて惡趣と爲す。娑婆の人天は雜業の所向なれば亦惡趣と名く。若し此の方の修治斷除に依れば、先づ見惑を斷じて三塗の因を離れ三塗の果を滅す。後に修惑を斷じて人天の因を離れ人天の果を絶つ。此れ皆漸次に斷除すれば橫截と名けず。若し彌陀の淨國に往生することを得れば娑婆の五道一時に頓に捨つ。故に「橫截五惡趣」と名くるは其の果を截るなり。「惡趣自然閉」とは其の因を閉づるなり。此れ所離を明す。「昇道無窮極」とは其の所得を彰す。若し能く作意して廻願して西に向へば上一形を盡し下十念に至るまで皆往かざること無し。一び彼の國に到れば即ち正定聚に入りて此の修道一万劫と功を齊しくするなり。