心に依て勝行を起せり。門八万四千に餘れり、漸頓則ち各々所宜に稱へり、縁に隨ふ者則ち皆解脱を蒙る。然るに衆生障重くして悟を取る者明らめ難し、敎益多門なるべしと雖も凡惑徧攬するに由無し。遇々韋提請を致して、我今安樂に往生せんと樂欲す、唯願はくは如來我に思惟を敎へたまへ、我に正受を敎へたまへといふに因る、然るに娑婆の化主其の請に因るが故に、即ち廣く淨土の要門を開く、安樂の能人は別意の弘願を顯彰す。其の要門とは、即ち此の『觀經』の定散二門是なり。定は即ち慮を息めて以て心を凝らす、散は即ち惡を廢して以て善を修す。斯の二行を廻して往生を求願せよとなり。弘願と言ふは、『大經』の説の如し。一切善惡の凡夫生を得る者は、皆阿彌陀佛の大願業力に乘じて增上縁と爲さざること莫し。又佛の密意弘深なれば、敎門をして曉り難し、三賢・十聖も測りて闚ふ所に弗ず、況や我信外の輕毛なり、敢て旨趣を知らんや。仰いで惟みれば釋迦は此の方より發遣し、彌陀は即ち彼の國より來迎す、彼に喚び此に遣はす、豈去かざるべけんや。唯勤心に法に奉へて畢命を期と爲して、此の穢身を捨てて即ち彼の法性の常樂を證すべし。此れ即ち略して序題を標し竟んぬ。
[釋名門]
第二に次に名を釋すとは、『經』に「佛説無量壽觀經一卷」と言へり。「佛」と言ふは、乃ち是西國の正音なり、此の土には覺と名く。自覺・覺他・覺行窮滿、之を名けて佛と爲す。自覺と言ふは凡夫に簡異す。此れ聲聞は狹劣にして唯能く自利のみありて闕けて利他の大悲無きに由るが故に。覺他と言ふは二乘に簡異す。此れ菩薩は智有るが故に能く自利し、悲有るが故に能く利他す、常に能く悲智雙行して有無に著せざるに由てなり。覺行窮滿と言ふは、菩薩に簡異す。此れ如來は智行已に窮り、