優樓頻蠃迦葉は五百の弟子を領して邪法を修事す、伽耶迦葉は二百五十の弟子を領して邪法を修事す、那提迦葉は二百五十の弟子を領して邪法を修事す。總じて一千有り、皆佛化を受けて羅漢道を得たり。其の二百五十といふは、即ち是舍利と目連との弟子なり。共に一處に領して邪法を修事す。亦佛化を受けて皆道果を得たり。此等の四衆を合して一處と爲す。故に千二百五十人有るなり。 問て曰く。此の衆の中に亦外道に非ざる者有り、何が故ぞ總じて標する。答て曰く。經の中に説くが如し。此の諸の外道常に世尊に隨ひて相捨離せず。然るに結集の家、外德を簡び取る、故に異名有り。是外道なるは多く、非ざるは少し。 又問て曰く。未審し、此等の外道常に佛後に隨ふは、何の意有りや。答て曰く。解するに二義有り。一には佛に就て解し、二には外道に就て解す。佛に就て解すとは、此の諸の外道邪風久しく扇ぐ、是一生のみに非ず。眞門に入ると雖も、氣習由在り。故に如來知覺して外化せしめざらしむ。衆生の正見の根芽を損じ、惡業增長して此の世後の生に果實を收めざらんことを畏るればなり。此の因縁の爲に、攝して自ら近づかしめ外益を聽さず。此れ即ち佛に就て解し竟んぬ。次に外道に就て解すとは、迦葉等の意、自ら唯曠劫より久しく生死に沈みて、六道に循還し、苦み言ふべからず。愚癡惡見にして邪風に封執し、明師に値はずして永く苦海に流る。但宿縁を以て遇々慈尊に會ふことを得ること有り。法澤私無ければ我が曹潤を蒙る。尋ち佛の恩德を思ふに、身を碎く極惘然たり。親しく靈儀に事へて暫くも替るに由無からしむることを致す。此れ即ち外道に就て解し竟んぬ。 又問て曰く。此等の尊宿云何が衆所知識と名くる。答て曰く。德高きを尊と曰ひ、耆年なるを宿と曰ふ。一切の凡聖彼の内德の人に過ぎたることを知り、其の外相の殊異なるを識る、故に衆所知識と名く。 上來九句の不同有りと雖も、